2012年7月20日金曜日

最後に②(パレスタイン)

続けて、最後に書きたかったなあおと思うことを書いておこうと思います。
それは、パレスチナの人々のこと。

ヨルダンは、国民の7割以上が、パレスチナからの人々で成り立ってる国です。
イラク、シリア、イスラエル、パレスチナに隣接したところにあって、国もヨルダン人3割、パレスチナ人7割という構成で、色んな不安定要素があってそれが大きくなってもおかしくなさそうなのに、国が安定しているのはすごいと、在住する一外国人として思う。

パレスチナの人々のことをずっと書こうと思ってたけど、なんと書いていいんだろうと思って。

私が初めてパレスチナの人々に実際に会ったのは、10年前、パレスチナに行った時。
その時は中東を旅してて、アンマンからエルサレムに入って、ガザ、ラファとまわりました。
今のような壁はまだ建設されてなかったけど、ガザ地区に入るのは、国境のようなイミグレがあって、検問も厳しかったような。
2002年、イスラエルとの状況は安定していなくて、街は破壊されているところが多かった。

       ガザの市場
                     ガザで会ったこどもだち








ガザではホテルというか、ただの部屋貸しみたいなのが一応あったけど、ラファ(ガザ地区の南の街)にはなくて、現地の人のうちに泊めてもらいました。


夜も爆撃と思われる音がしてて。
夜、泊めてくれたお父さんは、「自分たちはずっと前からここに住んでて、ただ住み続けたいだけなのにそれがなんでだめなことなんだ。」と言ってて、それがすごく自分の中に残ってます。
それまで、パレスチナ問題は教科書や本で読んだ単語でしかなかったのが、初めて、ああ!こういうことなんだ。と思いました。

今も全然続いている問題で。
その中で人々は生活しないといけないし、子供たちも育っていかないといけない。
何も知らなかったんだなあと思いました。
でも、知ることは大切だと思う。




今回、ヨルダンに来れて、ここでもたくさんのパレスチナの人々に出会いました。
アンマンで仲良くしているお父さん、お母さん。同僚も半分くらいは、パレスチナ出身です。
フセイン、スレイマーン、ハイサム、アラファート、イブラヒム、そしてそのファミリー。他にもたくさん。

当たり前だけど、どの家族もパレスチナを恋しく思っています。
家にパレスチナの国旗があるし(そういえば、ヨルダンの港町アカバにもすごく大きなパレスチナの国旗があります)、
パレスチナ刺繍の服や、刺繍を作ってる奥さんも多い。
自分たちは、ヨルダン人というより、パレスチナ人と思っている。

私が住んでいたゴールサーフィーから、対岸のイスラエルが見えます。
同僚のアベッドは、普段は物静かだけど、「向こうには自分の故郷がある」とふと言ってた。
校長も、私がレポートにgoogleからとった地図を掲載してて、そのIsraelというのを見たときに「そうじゃないだろう」とそこだけ静かに指摘していました。
無理かもしれないけどいつか戻りたいと皆思っているんだと思う。
アンマンのお父さんも、「自分もまわりのパレスチナ人もみんな、まだパレスチナの家の鍵を持っている」と言ってた。

一方で、同僚の奥さんは、「自分はパレスチナ人だけど、ヨルダンと結婚したの。ヨルダンに住めててよかった。」と言っていた。
色んな気持ちがある。

友達のヨルダン人は、「私たち(ヨルダン人とパレスチナ人)は戦火は交えていないけど、でも仲良くはない。」と言ってて、最初びっくりした。
ずっとパレスチナ人の側から考えてて、ヨルダン人の立場から考えたことがあまりなかったから。
彼女が言うには、「確かに同じアラブだし、パレスチナの人は気の毒だけど、たくさんヨルダンにやってきて、うまく商売して・・・・、ここはもともと私たちのところなのに」ということだった。

本当に色んな立場があるし、色んな気持ちがある。

何もできないけど、実際にたくさんのパレスチナ人と家族のように仲良くなって、色々話せたりできてよかった。
あまりにも問題が大きすぎて、長い歴史のある問題で、何も軽々しく言えないけど、少なくとも色んな人の気持ちを実際に聞けてし、たくさん感じた。